温暖化進展による海水面上昇の次に来るのは

英国グラスゴーで開かれた第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)で、環境NGOでつくる「気候行動ネットワーク」(CAN)は日本時間の(2021年)11月2日、岸田文雄首相の演説に対し、日本に化石賞を贈ると発表した。日本が「化石賞」を受ける不名誉は前回に続き、2回連続の受賞だ。

ところが日本での報道を見ると、「目標」だの「成果」だのと謳いながら客観的な評価がまるでない。この事態は絶望的な未来を示すのに、「よく頑張った」だのと何を報道しているのかと思う。簡単に述べると、「みんな頑張ろうね」で合意したが「何をどうするのか」の話のない会議だったということだ。

 特に日本の報道は酷い。客観的な報道はなきに等しく、「頑張ろう」みたいな掛け声ばかりだ。しかも特に日本が酷い点は、原因を作った加害者を上げないことだ。

 二酸化炭素を排出しているのは誰か、電力会社・鉄鋼・セメントなどの大企業が加害者なのに、未来の被害者になる人々にばかり責任を押しつけている。そりゃ人々に責任が全くないわけではない。しかし全家庭の排出量では全体の数パーセントにしかならず、「エネルギー転換部門」と称される電力会社だけで全体の四割以上を占めるのに、何も言及されないのだ。

 いかさまのデータで何を言おうと絶望なのだ。あと一年もすると加速する温暖化を止める方法すら成り立たなくなる。私にはこの会議の成果は「未来の絶望を確定的にしたこと」だけではないかと思えるのだ。

 この一年だけでできるとしたら、

  • みんなで電力会社との契約を解約し、電気は自給する努力をすることと、
  • 農地や林地の二酸化炭素吸収能力に協力して未だに出している二酸化炭素を土壌に吸収してもらうこと

だけだ。

 ところが人々は祭りのように浮かれるだけで、何の成果もないのに「成功おめでとう」などという。

 

 すっかり絶望的になった事態を前にして、私は未来に起こることを考えていた。もちろん温暖化の科学自体が間違いなら素晴らしい。何も心配なく二酸化炭素を排出し続ければいいのだから。現にそういう主張をし始めた「かつてマトモだった人達」もいる。そういう人たちを見ると、壺の奥に隠れて助かろうとするタコを見ている気になる。現実を見なければ大丈夫だと思い込むのだ。

 

 また逆に長すぎた「間氷期」がタイミングよく温暖化に重なって、これから来る「氷期」を和らげるのではないかと。しかし困ったことに氷期は100万年続く。もし偶然が重なっても生き延びられるのはわずかな期間だ。ではわたしたちがこれまで作ってきた「文明的な暮らし」はどれ位の期間を保全するだろうか

 

 これについて「人類滅亡-Life After People-」というドキュメンタリー映像をアマゾンプライムで観ることができる。しかし悲しいかな、人間が創造したこれらの文明は、どれもこれも短命なのだ。少し手を掛けられれば相当使えるかもしれない。しかしそれでも数百年が限界だ。氷期を越えて使えるようなものは何もない。人間は氷期の終わりに誕生した。暖かくなり、極地周辺の海の氷結が溶けるにつれて海水位は高くなり、それだけ人々の住む平地は海に張り出した。ほんの縄文期以前には中国大陸につながり、東シナ海は陸続きだった。

 

 その時期には人はもっと自由に生きていただろう。これから起こる地球温暖化による大災害は確かにひどいことになるだろう。しかしそれでも人類全員が滅亡するとは思えない。ほとんど野生生物たちと同じレベルになっても、わずかな人類は生き延びるだろう。そして生き延びたわずかな人々は、そこに新天地を創るだろう。



 でもそうだとすると、今の私たちの文明の前に何もなかったとは思えなくなる。人類は二百万年前に誕生していたとして、我々が歴史として知るのはわずか数千年だ。その前の199万年は何もなかったのか。西暦で言うとたかだか二千年ほどの間にこれほど進展したのだ。それと同じ人類が、何万年もいたのに、何もなかったと思う方が難しい。

 日本では旧石器時代である縄文期の研究の進展が面白い。西洋の杓子定規な発達などではなかったからだ。青森の三内丸山遺跡の研究から、そこに約一万年定住生活していたようだ。人々はそこに樹木を植えて、食料や住居として使っていたようだ。農耕もあったようだ。しかし人々は侵略したりされたり、殺し合うための武器を発達させるのではなく、探検・冒険・文化・芸術に時間を費やしていったようなのだ。 

 

 ところがその時期のものの※遺構はわずかしかない。「海進」と呼ばれる氷河の溶解や体積の膨張により、あったであろう遺構は海の底百メートルほどの水底に沈むことになったからだ。海水面が下がったのであれば、遺構は目に見える形で残っただろう。ところが沈んで海底の埃に隠されてしまった遺構は見つかりにくいのだ。 

 

 今私たちが生きている時代は、地球温暖化という異常事態によって海水面の底に沈む。次回の氷期が始まると、極地方の海水が氷結することによって再び海水面が下がって発見することも可能になるだろう。しかしその時代の人々は果たして興味を持ってくれるだろうか。もし私たち同様に興味を持ったとして、この愚かな時代を乗り越えていくだけの賢さを持っているだろうか。 

 

 ぼくは今時代を共有する人々と離れ離れになるのがとても寂しい。ぼくも参加した「非戦」という本を作った時、一緒に参加して作った仲間は全世界に散らばっていた。それがインターネットという空間の中で論議し、作成し創ったものだった。

その中で自分の考えを傍証するために世界中の論考を検討した。ただ一つ不自由だったのは、世界の標準時が異なるために、24時間営業の図書館で四六時中学んでいるみたいで、息継ぎしながら考え、休むことができなかったことだ。最大時の一日には360通ものメールが行き交った。今ではそんな大それた冒険ができるとも思えないが、確かに世界の各地にいながら思いを共有していた

 

 それを過去の伝説にしたくない。人々は生きていて、確かな息遣いと共に生存していたのだ。今の地球温暖化問題は、刻々と存在できる場所を狭めていくだろう。まるで海中に没した過去の遺構みたいに。私はそれを進める金儲けの仕組みが許せないのだ。

田中優無料メルマガより転載

遺構とは、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての建造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。Wikipediaより