もう一つの「インデペンデントリビング」

「牧羊犬」と言われてすぐにわかる人も少ないだろう。ちっとも身近ではないのだから。牧羊犬とは牧場で放牧している家畜の群れの誘導や見張り、人間による盗難やオオカミなどの捕食動物から守るように訓練された犬である(ウィキペディアより)。

なんだか羊が私たちの「秩序立った社会に追い込まれていく姿」に似ている気がする。犬もいないのに何の号令に従って、私たちが動くのだろうか。多分「カネの損得勘定」に従って動かされているのだろう。損するなら誰も買わなくなる。得するからみんな買う。この簡単な号令に合わせて整列、誘導されている気がする。北陸では新築した家の多くが「オール電化」にしていた。

 この四月からオール電化を支えていた「深夜機器割引制度」が終了した。夜は事業系の電力消費が少なく、消費量を増やすために導入された制度だった。深夜だけ発電しなくすることが困難な原発の電力を消費させるために。ところが311事故以降、原発は動かせなくなり、余るほどの電気は発電しなくなった。だから終了させたのだ。  

 再生可能エネルギーからの電気は高く買ってもらえる。それで導入が進んだが、再生可能エネルギー中心の「新電力」に契約変更した人たちには、四月に高い電気料金が課せられた。送電線網も発電所の多くも旧電力会社の持ち物のままで、不足分の電気は市場からの電気を買わされた。関係ないのに再生可能エネルギーの電気の値段まで市場価格と同一にされた。差益は送電線網を持つ旧電力会社の利益となり、電気を売った設置者には届かない。私たちはいいように囲い込まれた。「良い子はそっちに行かないように」と。  

 確かに再生可能エネルギーの電気は高く売れたが、蓄電池を入れると買取価格が半分に下がる。これも仕組まれたものだ。自然エネを導入しても良いが、それで電力自給して自立したりしないようにと。  

 私は飼われたくない。人の指図通りに生きるのはごめんだ。だから高くても蓄電池を入れて送電線網にはつながなかった。得はしないが生き方として、もう10年以上前から独立した電気の自給をめざした。雨の日は電気貧乏でカツカツの暮らしだが、晴れの日は余るほどだ。送電線にはつながっていないから「オフグリッド」だ。その暮らしにも慣れた。  

 私の三男が映画監督になって、障害者の自立生活運動をドキュメントした「インデペンデント・リビング(独立した生活)」という映画を作った。「それはオレの暮らしのことだ」とも思うが、そのことは話したこともない。というのは周囲の人に関わって支え合う自立生活が三男の映画の趣旨だからだ。私のように孤立独立ではない。

 だが、私も今の暮らしが一番だとは思っていない。本当は地域の中で助け合う形にしたい。しかし地域で電気自給をしたら、その方が高くつく時代だった。だから個人で自給した。しかし時代が進展した。「オリビン型リン酸鉄リチウム電池」なら長寿命だし、よく使われるので価格も安くなった。そう、今の電気料金を払うなら、地域で電力自給が可能になった。それでもまだ電力会社とつながって、価格で脅されて従わされる「羊の群れ」でいたいだろうか。しかも進展は著しく価格も性能も一方的に下がりつつある。  

 小さな地域で小さな電気を 私は地域で小さなコミュニティーハウスごとの地域自給を提案した。ほぼ50世帯ほどの地域ごとにハウスがあり、小さな発電の電気自給に適しているからだ。発電するものは太陽光でもマイクロ水車でもなんでもいいが、大きすぎる風車やメガソーラーには向かない。そうすれば大きな停電は起きないし、いざとなったら蓄電したバッテリーを運べばいい。そもそも家庭の電気消費量は少ないし、発電した場所と消費地が近いから送電ロスも少ない。もう一つ、環境を壊さず、地球温暖化問題を気にする必要もなくなるのだ。  

 日本の最大の二酸化炭素排出源で40%を占めるのが旧電力会社の発電所だ。ここから各地に交流高圧線で電気を送っている。高圧線なら送電ロスが減り、交流なら変電が簡単になるからだ。その代わりに大きな電気は故障した時に広い範囲を停電させる。北海道でも房総でもブラックアウトしたのはこのせいだ。それを小さな範囲の自給自足に変えていけば万が一の時の被害も被害の範囲は狭くなって安心になる。この送電線網(グリッド)の仕組みを変えて、小さな範囲からの小さな電気を集める形にしたら、電気で人を支配することはできなくなる。電気料金を使って人々をコントロールすることはできなくなる。  

 こうして電気による人の支配をなくさせよう。アメリカ・カリフォルニア州でエンロン社が停電させたり電気価格を引き上げたりしたのは、発電所と送電線網を支配したからだ。やがてエンロン社は詐欺的なやり口と粉飾がばれて倒産したが、未だに日本では発電所と送電線は旧電力会社の支配下にある。電力そのものを地域化しよう。そうすれば支配はできなくなる。やがては、電気は自然から与えられる恩恵の一つになるだろう。燃料費は要らないし、長く使えるならその分だけ価格は低下していく。価格も下がって地域のインフラになるだろう。

 そもそも家庭の電気が高いのは、高圧送電線で送る大企業向けの電気料金分まで家庭に負担させているからだ。家庭と大企業向けの電気を分けて、家庭等は地域で賄うことにすれば余分な負担は避けられる。適正な負担にすれば電気料金は下げられるし、技術の発達が人々の暮らしを安価で安心なものにするだろう。  

 地域の小さな電気なら、送電線網に頼る必要はない。地域で目に見える形で電気を作り、地域で消費していくなら、私たちはその消費にも責任を負えるようになる。無責任でない電気の生産と消費が可能になる。そうなって初めて、私たちは環境にも自然にも責任を持つことができるだろう。送電線網の支配をそのままにしたままで自然エネルギーを増やそうとしたことが今の問題を作ってしまった。新たなものには新たな器が必要だったのだ。 

 次の時代を作るのは、新たな送電の仕組みだ。小さな地域の電気を集めて、小さく消費していく仕組みを作ろう。まるで葉の一枚から滴り落ちる水滴を集めて流れを作るように、地域でエネルギーを生み出そう。そのとき私たちは電力会社から離れ、「飼われる羊」でなくなるだろう。