最初の一人に

コロナワクチン接種による死亡者数

厚生労働省がこの(2024年)6月5日に公表した2023年の「人口動態統計」の死亡数に、初めて新型コロナウイルスワクチン接種」を死因とする人数が計上された。

医師が死亡診断書に記載した人数を集計したもので、23年は37人だった。厚労省の担当者は「あくまで現場の医師の判断によるもの」で、評価を言う立場にないとしているが、しかし統計として集められたこと自体が大きい。

ちなみに今回の発表に合わせて、「2022年のワクチン接種死者数も23人あった」ことも明らかにされた。こうした新型コロナに対するワクチンの接種被害についての情報は遅い上、しかも適切とは言えない。

製造者が「ファイザー社」「ジョンソン・エンド・ジョンソン社」「アストラゼネカ社」など、少数に限られているからだ。しかも本来の「治験」なら、「基礎研究」「非臨床研究」などに約10年かけ、検証には10~15年以上かかると言われる中、余りにも早いのだ。

日本でも塩野義製薬、UMNファーマの遺伝子組み換えワクチン、第一三共・東京大学医科学研究所のm-RNAワクチン、アンジェス・大阪大学/タカラバイオのDNAワクチンなどの開発が進行している。注目しなければならないのは、どれも非常にカネのある大手企業で、もともと政治力の強い会社ばかりだということだ。

新型コロナがどれ程怖い疾病なのだろうか。今や大きく報道されることも稀になり、かつて感染性と重篤度が高くて「二類相当」の感染症とされていたが、この(2023年)5月からは「五類」に引き下げられている。

今では誰もがそれほど恐怖する疾病ではなくなっているだろう。かつてニュースで新型コロナウイルスについての危険性を問題にし、それに対するワクチンの接種を呼びかけ、医療機関に勤める人たちや関係者に、まだ治験すら終えていない「ワクチン接種」を呼びかけ、多くの人たちに接種を呼びかけていたが、それによって死亡した可能性ある人がいたということだ。

ワクチン接種を余儀なくされた人たちがいて、それによって無意味な死を余儀なくされた人たちがいたということだ。これはまるで戦時中の「赤紙」のようなやり方ではないか。他に選び得る選択肢のない中で、実質的に死の可能性のある強制がそこにあったのだ。おそらくその人たちに他に選べる方法もなかった。実質的な強制だ。

それが今頃になって「あくまで『任意』だった」とか、「受けた人が悪い」とか言われてもどうにもならない。こんなものが「ワクチン」という善人の顔をして、撒き散らされてしまったのだ。「医療、薬品」と言われば信じてしまいやすいが、それによって死がもたらされてしまった。ワクチンの開発者にはカネになる。そして投資家の人たちがここに群がったのではないか。

電気も同じ

人々がカネを出さなければならない思い込みにはもう一つ、生活に不可欠な「電気・ガス」のようなインフラがある。そこを狙われて簡単に利益を生み出す源泉として利用されている。

特に電気は実質独占されているから便利だ。原発のような巨大設備が必要と思い込まされて、全国をつなげる送電線がなければ自給できないと思い込まされている

送電線を支配すれば新たな発電事業者は排除できるし、需給量の調整を理由にして買取価格も自由に決められてしまった。そしてワクチンと同じように、被害が出ても補償されないのだ。現に福島原発事故以降、首都圏周辺に60万人ものがん患者の急増があっても問題にすらされていない。

原発事故の原因は大地震だったが、今回の能登地震の震源地に北陸電力が原発を建設することにも躊躇がなかった。その能登半島を半年ぶりに地震が襲った。原発が稼働していなかったことに安堵したとしてもそこに原発を設置したことへの非難はなかった。

これでは私たちは安心して暮らせない。地震の起きないことを祈るしかないのだろうか。それより原発をなくす方が安心できると思わないのだろうか。

日本に地震が起こるのは避けられない。ならば原発をなくすことが一番重要だろう。実際には原発以外の放射性廃棄物の施設なども同様に危険だ。それらは東京から遠い北海道や九州などが狙われる。距離があっても同じ地球の上のことなのに。

私たちはよほど騙しやすい存在なのだろう。コロナウイルスでも簡単に騙され、「ワクチン」という危険物質を自ら体内に入れてしまった。そして利益を求める企業のしもべとなってしまった。しかし私たちには戦時中と違って自ら調べて判断して未来を選ぶこともできるはずだ。権力者の言いなりにならなくていい。「自由」という選択肢を手に取ることもできる。むしろ自由を選択しないのは私たちの「権利放棄」だ。

私が役所に勤めていた頃、虫歯予防の「フッ素塗布」という仕事の手伝いに駆り出されたことがある。私はそれは不要だと思っていて受けていない。ふと気にかかって同じく駆り出されてきていた周囲の人に聞いてみた。すると私と同じように職員たちは誰も受けていなかった。驚くほどの結果だった。たくさん並んでいる「フッ素塗布」を待ち続ける人の列を整理している職員には、それを信じている人は誰もいなかったのだ。

最初の一人に

原発もそうなのかもしれない。誰も信じていないのに、まるで当たり前のことのように列を成しているのだ。だれか「やめよう」と言えばなくせるのかもしれない。だが「最初の一人」になるのが嫌なので従っているだけなのかもしれない。

でも「最初の一人」こそ、必要なのかもしれない。ワクチン接種でも戦争でも、「最初の一人」こそが、必要だったのではないか。これまで切磋琢磨して作ってきた自分の意志を活かすこと必要なのだ。

そうでないと私たちは騙された人たちの列に並ばされることになる。「原発に反対だ」という一言が言えないために、幼い子どもたちを含めて被爆者の列に並ぶのか。

私のように感じている人は少なくないだろう。でも最初の人になる人は私も含めて多くはないだろう。でもそれで本当によいのだろうか。小さな声でいいから「」と言ってほしい。それがいつか社会を変えるのかもしれないから。

(2024年6月川崎市職員労働組合様へ寄稿したものを、好意を得て転載しています。タイトルは一部変更しました。)