あまり自分から話したいとは思わない話だが、ぼくは中卒から働いていた。
いったんはいい高校に入ったのだが、どうにも合わなくて辞めてしまったからだ。
親に養われているのがイヤで、早く独立したいという思いもあった。でも独立して自ら生計を立てるなんて無理だった。ただ命令通りに体を動かすだけなのだから。
その頃勤めていた町工場の名前をインターネットで検索してみた。そこは比較的大きな工場だったが、多角化に失敗して2002年に倒産していた。もしそのまま勤めていたとしても、旋盤工のぼくはクビになっていただろう。
体力以上に辛かったことは、希望がない暮らしだったことだ。
まず周囲の中卒で働く仲間たちは、未来に絶望している。今言われるとおりに動くことに慣れようとしている感じだった。そして一足飛びな夢を見る。「オレは世界のヤザワみたいになって、世界の高級車を何台もガレージに並べて暮らすようになるんだ」と、楽器のひとつも使えないのに言う。
考えることは一攫千金ばかりになり次第にギャンブルにはまっていく。人によっては借金地獄にはまって消えていく。先輩と呼ばれる人たちがすでにそうだ。一緒に行くかと誘われて、たどり着くのは立ち飲みの酒屋。何か話があるのかと思っていれば、自分ひとりでギャンブルに夢中になっている。
ぼくの乏しい収入では、安いアパートに住むことしかできず、アルミサッシの窓のあるアパートに住みたかった。風が吹くと、カタカタ鳴る窓が憎らしくて仕方なかったのだ。そんな夢を持つのがせいぜいだった。
与えられる仕事は毎日同じものを製造することばかり。ところがその肝心の製品自体がどんなものなのか知らない。自分がどんな製品の、どんな部分を作っているのかもわからない。だから創意工夫のしようもない。 ただ限りなく続く「徒労」のような仕事の中で、時間とそれに対する給与とを秤にかけて過ごす。
ただ、そんな中でもいつか自分らしくなりたいとは思っていた。
追われるようにして出てきた故郷のうわさが耳に入る。一緒に悪いことをしていた不良仲間だった○○が死んだと。盗んだ車で人をひき殺して逃げる途中で列車にぶつかって死んだと。同じ夜間高校の知り合いは、新聞の殺人事件の欄に犯人として名前が載っていた。
どうにもならない暮らしの中で、夢もなく生き続けるのに耐えられなくなってしまったみたいに。
実際、不良仲間と話していると、たいがいこんな話になる。「オレは大型のタンクローリーで町をつぶしながら走り続けて、最後には町を全部炎上させて新聞の一面に載るんだ」と。
バカげた話だろ?
でもまじめに話していたんだ。誰からも思い出されもしない、忘れられた若者たちは、そんなことであってもいいから自分の存在を感じさせたいんだ。
一方で親しかった優秀な友人たちのうわさも耳に入る。ぼくはまだ高校一年生をしているというのに、友人たちは大学の話、そして聞いたこともない本と著者の名を話題にしている。
ぼくはなにをしているのだろう。なにがしたかったんだろう。
実際、自殺したいと考えた時期もあった。このどっかで間違えた人生をチャラにしたかったんだ。とても好きだった彼女にふられて、生きていくことの意味も感じなくなっていたから。もう何もしたくなかった。どうなってもいいと思っていた。どっかに隠れてしまって、この恥ずかしい自分という存在を、目に見えないものにしたかった。
でも半年すると、自分の内側に生きたいと思う衝動が生まれてきた。ふとこう思った。『もう一度彼女に会うことがあるとしたら、絶対に惚れられるような男になっていたい』と。 恥ずかしい自分に、もうひとりの理想形の自分を別に置いた。
ある意味、「離人症」に似ている。
なるべき「田中優」を、この恥ずかしい田中優の外に作ったのだ。
そこからだったかもしれない。これまで臆病で受験できなかった「大学入学資格検定(大検)」を受け、「初級公務員」の高卒程度の試験を、まだ夜間高校の2年生で受けた。試験に合格し、初めてデスクワークの仕事に就いた。
実はそれまで、仕事を終えてから何か別のことをしたいと思っていても、それだけの体力が残らなかった。特に20キロある砂糖袋をトラックから投げられて、それを次々運ぶ仕事をしてからは、椎間板ヘルニアになってしまっていた。
合計2トン以上の砂糖袋を下で受け取っては積み上げていく。少しでもよろければ「箸より重いもん、持ったことあんのか!」と怒鳴られた。
それでも超能力を信じるみたいに、自分の限界を超えるつもりで頑張り続けた。
椎間板ヘルニアとわかるのは今だからで、当時は動けない自分を責めていた。
認めれば自分はもう健常でないことになるし、認めなければ自分を怠け者と感じるしかなかったから、無意識に考えることを避けていたのだろう。
だから、デスクワークになったときにはうれしかった。仕事を終えてもまだまだ体力・気力が残るのだから。
そこからは、他流試合をなるべくするようになっていった。内にこもるのではなく外に、人に従うのでなく自分の考えを。大検で大学受験資格を得ると、今度は大学受験のための勉強を始めた。しかし自分ひとりだけだ。競争相手も仲間もいない。そこでさらに生活を忙しくすることで、自分の中に焦りを作りだして勉強することにした。
そこで通ったのが自動車教習所だった。仕事の後に夜間高校の片手間に退屈極まりない講義を受けるのだ。時間はなくなり、講義の退屈さが自分を勉強に駆り立てた。
大学は夜間に行くことにし、幸い希望していた法政大学法学部に合格した。昼間勤めながら夜通うのだ。しかしすぐにイヤになった。大学は友達もいなければ拘束もない。そんな中で退屈な授業を受ける気が起きなかった。
さらに夜間高校に行っていた頃から、それは「本物の高校」ではないように感じていたのだ。本当はレベルが格段に低いのに、高校のふりをしているだけの。大学だって同じだ。そのコンプレックスがイヤにさせていた。
通わずに一年後、退学するつもりでいたぼくのところに小包が届いた。大学からだ。「大学の後期試験が、学生運動によって中止させられた。ついてはレポート試験に切り替えるので、レポートを書いて出すように」と。内容を見てみると、ほとんどが課題の本があり、それを読んでレポートを書けというものだった。
『これはチャンスかもしれない』と思った。
それまでどこの学校でも、自分の意見を言えば否定された。「だっておかしいだろ」と言えば、「おまえは協調性がない、不良だ」と言われてきていた。だから自分の意見を思いきり書いて、それで否定されるならそれまででいいと思ったのだ。
しかし意外なことが起きた。
自分の書いたレポートが、ことごとく高い評価を得たのだ。生まれて初めてだった。
自分の意見を肯定され、評価されたのは。
「自分の考えを作っていいのか、それで評価してもらえるのか」とうれしくなった。そこからぼくは大学に次第にまじめに通うようになっていった。
「それでも夜間の大学でしかない」という思いは、ずっとついてまわっていた。中卒から仕事を始めて10年近く、自分は一度も自由に生きてきたことがないように思っていた。そこで大学卒業と同時に仕事を辞めた。・・・
「本当の履歴書(後編)」へ続く。
2012.2.16発行
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