努力を受け容れる「器」作りを

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(2022年9月現在)パキスタンが悲惨なことになっている。国土の三分の一が水没し、1100人以上が犠牲になったという。国土の三分の一が水没というのに驚くが、パキスタンの国土は日本の二倍もあるのだ。日本に当てて見直して知ると、ほとんど壊滅的な被害だと気づく。標高の低いところに人々の財産も人口も集中するのだから、そこが水没したということは、想像も及ばないほどの被害をもたらしているはずだ。

 この事態は、本当に気候変動の被害は「終わりの始まり」になってしまったように思う。日本の夏の気温変化は、日本も十分おかしくなっている。かつては30℃を超える日は「異常な暑さ」と感じていたのに、むしろ当たり前で、とんでもない暑さは40℃を超える日のことのように感じ始めている。

 それに対して遅まきながら自治体の「目標策定会議」が作られ、その委員として参加を求められた。はっきり言ってしまうと、ありきたりでどこでも作れそうな目標設定が提示されている。むしろ解決をさらに困難にしてしまいそうだ。というのは、前提自体が虚構に満ちたものだからだ。

 何もしなくても二酸化炭素の排出量は減ることになっている。まず地域の人口が減少していること、産業の縮小化が落ち込み続けているからだ。さらにまずいのは、電力業界が単位あたりの二酸化炭素排出量を減少するものとしている。こんな前提では、何もしない方がいい結果をもたらしかねない。まずこうした虚構を問題にしないと議論に入れない。人々は「やれることがあるなら協力したい」と考えているのに、その受け皿になる仕組みがないのだ。

 例えば交通対策では、「電気自動車化の推進」が当たり前に出てくる。「いやその前に、その電気はどうするのか」がない。

 かつて政府が京都議定書を結んだ時のことを思い出す。電力会社は石炭火力発電所建設を進めていて、嫌でも二酸化炭素排出量は激増する。それをほとんど増えないかのように数字で示していた。そのトリックは「石炭火力発電所は動かさない計算になっていて、だから増えない」というものだった。ところが実際には高い稼働率でガンガン増えた。ただ都合の悪いものは数値をごまかすという対応だった。

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 原子力も同じだ。ウランを掘って精錬し、濃縮するのだから莫大に二酸化炭素が排出される。さらに使用済みの核燃料は再処理して何万年と保管しなければならないのだから、絶望的に悪化させる。それを「原子力発電所は発電時には二酸化炭素を出さない」と説明することでごまかしている。いや、燃料精錬時にも再処理時にも膨大に出すし、そもそも発電した電気量の四割も使えていないのだ。うまくごまかして丸め込むことばかり上達していて、実際に役立つ技術になっていない。それは今も同じなのだ。

 これでは「終わりの始まり」を止めることなどできない。だからぼくはこの「目標設定案」に、仕組みを入れることを目標にすることにした。

 目標とするのは

地球温暖化の解決ないし緩和であり、そのため二酸化炭素の排出量を減少させること

を目的とする。

 そのためには最大の排出者が電力会社であり、作られた電気の半分以上を消費するのが産業分野だ。

 ところがそこには奇妙な原理があり、

家庭などの電気料金は使えば使うほど料金が高くなるのに、
圧倒的に消費する産業分野では「使えば使うほど料金が安くなる」


仕組みになっている。その結果より多くの電気が消費され、温暖化を促進させている。

 これを解決することが第一の目標だ。仕組みは簡単だ。

産業向け電気料金も家庭向けと同様に、
使えば使うほど高くなるように仕組みを変えればいい

 そこで地方自治体にとっては「伝家の宝刀」である「※法定外地方税」を創設して自治体内の産業に従わせればいい。独自の「地方税創設」の場合には、一部だけに負担させないことという原理と共に、負担を加重にしないことという原則がある。

 ならばこうしたらどうか。電気料金の総額を同額にして、「使えば使うほど安くなる」という右肩下がりのカーブを「使えば使うほど高くなる」という右肩上がりのカーブに変えられるのだ。総額に変わりはないが、より使わないようにすると得をするという仕組みになる。すると各企業内で製品生産の原価をより安く済ますための努力が、電気消費量全体を下げていくだろう。

 このような仕組みが「節電に努力することが有益になる器づくり」になっていく。解決策は専制的な強制ではなく、各人の努力によるものにすることで、自発的に解決していくことになる。電気自動車も同じだ。各自が電気を自給して作った場合の電気自動車のみ優遇すればいい。その場合には二酸化炭素排出の心配がないのだから、進展するだけ温暖化の防止になる。同じ考え方は他の解決にも使える。

 地方の自治体で最大の二酸化炭素の排出源は、ごみの焼却になることが多い。
ごみには紙類が多い。そこに燃えるゴミに分類される生ごみを混入させるせいで、重油を上からかけないと燃えないほど湿ったごみになっている。

 解決策は簡単だ。生ごみのビニール袋を禁止し、水気を多く含む生ゴミをザルを通してでなければ出せないようにするだけでいい。

 乾いた生ごみなら発酵させてコンポストにすることも、バイオマス資源として利用するにも簡単だ。できればその中の木草部分はゴミ処理施設で不完全燃焼させて木炭化し、地域の草地や森林に撒くといい。危険な薬品などを含まなければ、「バイオチャー」として土の肥沃度を高めて土地を豊かにする。それらは炭素を土地に還元したものとして、「カーボンニュートラル」として二酸化炭素排出量にマイナスカウントされるだろう。

 できることは各分野にある。ごみを自治体が回収するのは費用が掛かるし手間も膨大だが、もし人々ができることの「器」を大きくするなら、それは無理でも困難なことでもなくなる。必要なのは人々が関わって解決できることの「器」を大きくすることだ。それを各地に受け入れていくなら、今困難な目標も多くの人々の協力で実現できるようになっていくだろう。

私たちに必要だったのは、そのための「器作り」だったのだと思う。

(2022年9月川崎市職員労働組合様へ寄稿したものを、好意を得て転載しています)