送電線網(グリッド)をやめて、消費地に蓄電池を

 「あれから10年」と言えば東日本大震災と福島原発事故の話だと思ってもらえるだろうか。あの日、私は川崎のマンションで揺れの激しさと長さに家具が壊れたのかと思っていた。  

地震に気づくとすぐパソコンを開き、震源地、震度、その近くの原発の状況を調べた。ただごとではない予感はしていたが、すぐに明らかにはならなかった。それまでも地震のたびに原発を検索していたが、これほど広域にサイトが閉鎖されていたことはなかった。風向きやアメダス情報も調べた。ところが次々にサイトが閉鎖されていった。「知られたくないことが起きている」という予感は、時が経つにつれて大きくなった。   

週末に予定されていた講演会は、出掛けていくと人が入れずに列をなしていた。まさか自分の講演会への参加者だとは思わず通り過ぎる。予定の10倍もの人が集まり、入りきれず急遽大きな会場に変更され、内容も福島原発問題に変更された。  

それからは、日数よりも講演回数の方が多かった。早期退職していたからできたことだ。 あれから10年経つ。少しは変わっただろうか。確かに原発は減ったのだが、まだすべては止まっていない。稼働している原発は日々、人類の歴史と同じ位の管理を要する放射性廃棄物を生み出し続け、事故の心配は減っていない。ただ人々が忘れただけだ。   

人々が変わったつもりでも、遠くから電気を届ける仕組みに変化はない。超高圧送電線で電気が送られ、各地で低圧にされて送り届けられる仕組みのままだ。私は原発事故を契機に岡山に越した。そこで太陽光発電とバッテリーのセットで電気を自給するようにして、電力会社からの送電線を切った。送電線につながらない「オフグリッド生活」だ。今やそれにも慣れ、雨の日には電気が足りないから外の喫茶店で過ごし、もっと足りなくなればさらに節電した暮らしをして、毎日楽しんで暮らしている。      

もう電力会社には頼りたくない。いくら儲かると知っていても売電したくはない。かつて私は自然エネルギーの普及に賛成していた。しかしそれは既存の電力会社に利益を与え、人々に余分な負担をさせることになってしまった。     

 

私は今も、この送電線網(グリッド)に頼る仕組みのままではダメだと思っている。電気は各地域で生まれて、各地域で消費されるべきものだ。それを送電ロスが少ないから巨大発電所から小さな家庭の電気消費にまでつなぐのは中央集権の仕組みになる。その私の主張に対しては、自然エネルギーを推進する市民団体からも批判が強かった。再生可能エネルギーの優遇買取が進んでからは、その利益を失わせる主張だと非難されていた。     

 

今の送電のシステムは市民のためのものではない。電気は電圧が低い送電では送電ロスが大きくなる。だからなるべく高圧で送電する。家庭のすぐ近くまで高圧で送られ、電信柱についたトランスで、低圧の100〜200ボルトまで下げられて届けられる。家につけた太陽光発電もまた、その低圧線を逆流していくので送電ロスが大きい。二キロも離れると送電ロスに消えてしまう。電圧と送電ロスは反比例するのだ。だから消費する家庭の寸前まで高圧送電線で送るのだ。その仕組みのままでは中央集権の構造は変えられない。     

 

 

それに対して我が家では、バッテリーを入れて自給自足だ。家を建て替えた一年の間、リチウムイオンバッテリーに電気を蓄電したままにした。一年後、建て替え終えて家庭に電気をつないでみると、電気は97パーセントそのまま残っていた。なんと一年間にわずか約3%しか減っていなかった。これまで電気は消えてしまうから蓄電は難しいと考えていたが、それは逆だった。送電するよりその場に蓄電した方がロスは少ないのだ。少なくともリチウムイオンバッテリーに蓄電したままの方がロスは少ない。     

とすると電気は発電して送電しなければならないものではなく、各地で小さく蓄電して使えるものになる。電力を高圧送電して送電線に虐げられるより、各地に貯めて使えばいいものになる。     

今、私は電力の奴隷にならずに暮らすには、各地域に蓄電して市民自身が管理するものになるべきだと思う。電力の三分の二は大企業が消費しているのに、電気料金のほとんどは一般家庭が負担している。家庭の電気は消費量が小さいので送電ロスが大きく、料金負担も大きいのだ。これを各地の公民館などに蓄電し、そこから各家庭に送電すべきだと思う。地域分散型の電力はお題目ではない。各家庭の小エネ化が進んだ今、電気は地域で発電して地域で消費すればいい。大企業の犠牲になる必要はないのだ。     

自然エネルギーは不安定で生み出す電力が小さいと言われる。それは今までのグリッドシステムのまま使った場合の問題なのだ。各地で蓄電すれば電力は安定化し、各地で蓄電すればロスもない。いわば新しい自然エネルギー発電という仕組みを、古めかしいグリッドシステムに乗せたから起きた問題なのだ。   

地域自給すれば地域の資金になり、経済は地域に循環するようになるだろう。電気の値段が高くなることすらなく、停電の心配も減ると思う。太陽光発電装置もバッテリーも、その単価は安くなり続けている。その上、家庭に上乗せされている大企業の電気の優遇も、再生可能エネルギーへの優遇買取もなくなるのだから、安くすらなるだろう。すると原発が要らないのはもちろん、大きな発電所も必要ない。必要とする大企業が自ら発電すればいい。市民はその二酸化炭素排出量や環境負荷について、問題ないかどうか監視するだけでいい。     

今福島原発事故の災害から10年経って、新たな未来の形がようやく見えてきた。すべての未来に大企業や政府に依存する中央集権の仕組みを拒否しよう。私たちはカネがなくても豊かに暮らせるし、その実現も今や夢ではない。障害があるとすれば、10年経った今になっても大きいものに依存したがる奴隷根性だろう。閉じ込められて育った動物は出口が解放されていても外に出ようとしなくなる。私たちもそれと同じではないのか。     

こんな時代になってまで未来に臆すことはない。未来を解決できない廃棄物だらけにするのか、それとも安全で豊かに暮らすのか。その選択肢は今私たちの手中にあるのだ。