アテルイの末裔

清水寺に建てられた慰霊碑

ぼくが森林の話ができるのも、宮城県に「くりこまくんえん」の大場さんという林業者がいるおかげだ。大場さんは、体は大きいが心優しい友人だ。森のことでわからないことがあるとなにかと聞いてしまう。大場さんは東京農大だったかを卒業していてインテリのはずなのだが、そんなそぶりもなく普通に教えてくれる。

左:田中優 右:大場さん 古民家時代の岡山の田中優宅前にて

ただ森に入るとその活躍は花開く。森のことなら何でも知っているし、何でもできる。大柄な体格に似合わずとても細やかでやさしく、夜遅くまで酒につき合うくせに朝は早くから仕事を始める。  

その彼と話していた時に、二人で盛り上がった話がある。「アテルイ」の話だ。北東北では英雄のように語られる「えみし」の人なのだが、たまたまその時、アテルイの話を聞いたばかりだった。原発問題を知っていたら有名人なのだが、中島哲演さんが務める福井県の妙通寺に招かれて、アテルイの話を聞いたばかりだったからだ。  

「えみし」というのは東北に住んでいて、当時の大和朝廷に従おうとはしない人たちのことだ。「蝦夷」と同じ字だが、同一ではない。そこに侵略してきて平定しようとしていたのが大和朝廷で、そのために「征夷大将軍」として送られたのが坂上田村麻呂だった。


坂上田村麻呂は「えみし」軍に勝利し、投降してきたアテルイとモイ(副隊長だった)を朝廷に連れていった。戦場とされた地はただ壊されるだけでなく、奪われ焼かれ、荒れ果てた土地になってしまう。彼らは土地と人々を愛する民であるが故に投降したのだろう。朝廷はアテルイたちを謀反者として殺したがったが、坂上田村麻呂は彼ら二人の助命を嘆願した。しかしそれは聞き入れられず、二人とも殺された。

坂上田村麻呂はこれをとても悲しみ、清水寺や妙通寺を建てた。そこのポスターにはこうある。「将軍の祈ったのは、勝利ではなく平和であった」と。

坂上田村麻呂の言葉は残されていないが、敵方とはいえ尊敬できる友であったアテルイたちを助けられなかったことは、引き裂かれるような痛みだったろう。この思いから建てられたのが、華美な装飾はないながらも三重塔すら持つ「妙通寺」だった。

大場さんは言う。

「ぼくら、この地に生まれた人たちはみんなアテルイの子孫ですよ、森と土地と共に生きる民なんです」と。



しかし大場さんは妙通寺のことは知らなかった。そのことが、さらに坂上田村麻呂の思いが届かなかったように思えた。


ちょうど妙通寺では、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の張替をしていた。檜皮葺はヒノキの皮だけ剥いて使い、木自体は殺さない。その代わりにヒノキは薄皮だけ残されて、その木の幹は血を流したように真っ赤になる。アテルイのことを思い出した。  

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その大場さんがいなかったら森の中で牛を飼うことも、馬に木を運ばせることもできなかったと思う。

くりこまの牛たち

くりこまでの馬搬の様子

彼だから森を人と同じように大切に扱うことができたのだと思う。彼は家を建てようとする建て主さんを森に連れてきてほしいという。建て主さんに木を伐採する前にお神酒を立て、家のために伐られる姿を見てほしいのだという。そうして製材された木は、使い捨てにされることなく数世代は使われるのだろうと思っている。  

建主様と、命を頂きます、これからよろしくお願いしますと一礼する

 

建主様自ら伐採する

その森の中には石が積み上げられた場所がある。明らかに不自然で、人工的に積み上げられたものだ。おそらくアテルイたちが活躍していた今から1200年以上前に作られた土塁の跡ではないかと思う。この地が政府にまつろわぬ(服従しようとしない)蝦夷(えみし)の人々の土地だったことは確かだ。そこを侵略しようとする朝廷軍に対して、森の中に台地状や岬状に造ったのが「防御性集落」だ。その跡がくりこまの山の中に残されているのだ。  

山にはもちろん熊も住んでいる。しかしそれを撃とうとするマタギの人もいるので、そのことは隠している。熊もまた大切な森を守る仲間だからだ。しかし熊は栗の実を綺麗に食べてしまう。枝にまたがって、先の枝を折り曲げて自分の口元に寄せてから食べる。食べた跡の木は枝の曲がり方が独特なのだ。でも心配はいらない。除草のために牛を放牧しているこの森では、図体の大きい牛を恐れて熊は現れないのだ。  

アテルイのいた時代、東北地方は未だ朝廷に支配されない地域住民の土地だった。彼らの土地は戦争のなかった三内丸山遺跡と同様、戦うことなく豊かな地域を広げていただろう。それを朝廷側の支配の野望を持った侵略がその平和な暮らしを壊した。アテルイが蜂起せざるを得なかったのも分かる気がする。  

それを共感していた坂上田村麻呂は、アテルイたちを守りたかったがそれすらかなわなかった。

 

それが1200年の後、こうして森は回復した。人々は残念ながら朝廷に屈服させられたままだが。しかし、それもやがて森の中に眠る防御性集落跡のように、人々も森に隠されていくのだろう。ぼくも「えみし」と呼ばれた人々のように、政府にまつろわぬ民として森と共に生きたい。ぼくが敬意を持つのは自然そのものの側だからだ。  

父はアイヌ文化が好きで、彼らの文化に敬意を抱いていた。生前父と共に北海道を旅したことがある。父は阿寒コタンの公衆浴場に行ったとき、ぼくがアイヌの子と仲良くなり、風呂場で子どもの背を流していた時、「やっと息子に恩返ししてもらえてよかった」と話していた。もちろんぼくにそんなつもりはないし、ただ子どもと仲良くしていただけだ。  

父が生きていたら、このくりこまの山に連れてきてあげたかった。父はきっとここに住んで、都会に帰りたくないと言っただろう。ぼくから見ると父は強くなくて、ひ弱なインテリに思えていた。でもとにかく虐げられた側の人たちの味方で、その感覚のわかる人だった。父なら坂上田村麻呂の悲痛な痛みがわかっただろう。  

アテルイの物語で一番かわいそうだったのは坂上田村麻呂だったと思う。殺すつもりもなかったのに朝廷にアテルイを朝廷に連れて行ったことで殺され、そのことを悔やみ続けて人生を終えたのだ。一番大切にしたかった友人々からは蔑まれ、殺され、そのくせ自分は征夷大将軍と奉られてしまった。その彼が残したかったのは、敬愛するアテルイとモレの魂だったろう。それが福井の妙通寺建立の理由だったのだと思う。

(2023年3月川崎市職員労働組合様へ寄稿したものを、好意を得て転載しています)

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第279号:「アテルイの末裔」

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