今月(2024.12)書いたぼくのメルマガ「見る前に跳べ」より一部がこちらでお読みいただけます。
韓国での戒厳令発布に関連して書きました。
以下、メルマガ本文より
韓国での戒厳令発布とその取り消しまではすごく早かった。日本でも深夜~早朝の出来事で、何が起きたのか知る前に終わっていたような出来事だった。しかし韓国の情勢などを知る者にとっては大きな出来事だった。
その前に前回の戒厳令を見ておこう。それは1980年の「光州事件」でのことだった。
「光州事件」とは
「1980年5月18日から27日にかけて大韓民国の全羅南道の道庁所在地だった光州市(現在の光州広域市)を中心に発生した市民による軍事政権に対する民主化要求の蜂起」である。 光州事件の中心地となったのは「全羅南道旧道庁前広場で、多数の犠牲者を出した。
2001年までに韓国政府が確認した「光州事件」での犠牲者(死者)は民間人で168人、軍人23人、警察4人、負傷者は4782人、行方不明406人に達する。<i以上、文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.142-147 によって再構成。
この「光州事件」のあった1980年、日本でも大きな抗議活動があった。
韓国で起きていた事態は、1979年10月26日に朴正煕大統領射殺事件が起きて朴政権は一挙に崩れ、「ソウルの春」といわれた民主化の動きが高まると、金大中(キム・デジュン)への期待も高まったが、実権を握った軍人の「全斗煥」は民主化運動を弾圧し、朴政権の軍部独裁政治を継承した。
それに対して1980年5月18日〜27日に光州事件で激しい民主化の闘争が起きた。軍は光州のある全羅南道の出身である金大中を民衆暴動を扇動したとして逮捕し、裁判は死刑判決を下した。金大中はこのように軍事政権下で一貫して民主化運動の先頭に立ち、弾圧を受け続けた。
1982年に死刑執行は停止され、政界に復帰、1987年6月29日、再び民主化闘争が激化し、全斗煥も大統領の国民による直接選挙などの憲法改正を容認、その年12月の大統領選挙に立候補した。このときは民主運動から金泳三も立候補したため票が分散し、旧軍人の盧泰愚(ノ・テウ)の当選を許した。1992年の大統領選に立候補したが、ここでは金泳三に敗れた。
アジア通貨危機に見舞われた大韓民国の経済再建を課題とする大統領選挙で国民会議から立候補、アジア通貨危機に見舞われた大韓民国の経済再建を課題とする大統領選挙で国民会議から立候補、1997年12月18日、ハンナラ党の李会昌をわずか39万票の差で破って、4度目の挑戦で大統領に当選した。
この金大中氏が拉致されたのがこの日本の千代田区のホテルであり、――
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